なぜ大切な人が亡くなったら僕たちは悲しいのか
前回、死生学についてザッと外観しました。
死生学という掴みづらい学問をコンパクト伝えられたと思うのですが、5000文字以上あったからか、読み疲れたという感想をいただきました。迂闊。
ということで、これからは3000文字くらいを目安にします。5、6分で読めるようまとめますので、お手すきの際にお読みくださいませ。
さあ、もう150文字消費してしまいました。これは、収まる気がしない。
死生学は学問です。でも「死と生の学問ってピンとこないんだよなぁ」という違和感を持った方も多いでしょう。
そんな方のために、今回は学問らしさを感じるテーマを用意しました。
なぜ、大切な人を亡くしたら僕たちは悲しくなるのか?です。
みなさんは、これを理路整然と説明できるでしょうか。「なんとなく分かる」で片付けずに、言語化してメカニズムを説明したものが、学問です。
今回、なんとなーく感覚的な話で終わらせるのではなく、観察して得られた要因を整理した、数多あるうちの1つの理論を紹介します。
このテーマは、踏み入るのに勇気がいります。タブーに感じるでしょう。しかし、死が免れないものである以上、無視するわけにも、触れないわけにもいきません。
また、悲しんでいる人に対してケアをするにあたって、どんなプロセスで、何の要因で悲しんでいるのかを理解することにより、適切なケアをすることができます。
実践や応用に活かす知識となる。これこそ、学問の意義でしょう。
そうでありながら、理論に頼り過ぎてはいけないのですが、その話はまた別の機会に……。
それでは、早速ご説明しましょう。愛着理論の登場です。
愛着理論ってなんぞや
早くも堅苦しさが顔を出してきました。「理論」が格を感じさせますが、落ち着いてください。4文字です。
この愛着理論は、ジョン・ボウルビィという精神科医によって提唱されました。大学時代は心理学を学んだ後、医学の道に進んでおり、児童精神医学などが専門です。
戦争孤児や、母親の育児と子供の心の健康の関連性を調べたりしています。
では、理論名にもなっている「愛着」とはなんでしょうか。
愛着とは、深い絆でつながりあっている関係を示します。
恋人や親や子供といった大切な存在に対して、僕たちは心の底から情を向けます。その情から生まれ、保たれるつながりや絆や関係性が、愛着だと考えてください。
要は、愛着は誰しも持っているもの、ということです。
さて、ボウルビィが提唱している「愛着理論」を端的に一言で説明すると、こうなります。
悲しみとは、愛着対象の喪失に対する反応である。
んー。分かった気がしますが、説明しろと言われると難しい。少し回り道をして解説します。
赤ちゃんとして生まれた時、赤ちゃんの周りには脅威がいっぱいあります。自然も、動物も、人間も、危ないものばかりです。少し成長したとしても、知恵も力もなく、自分だけではどうしようもないことだらけ。
危険に満ちた世界ですが、命を守ってくれる存在があります。例えば、母親。不安を感じたとき、慰めてくれます。恐怖を感じた時、前に出て守ってくれます。
つまり、子供にとって母親というのは、安全基地という役割があるわけです。心が穏やかになり、不安が解消され、母親から好かれようと生きる理由にもなります。
しかし、いつだって母親が子供のそばにいることはできません。母親が子供のそばを離れた時、子供からすれば、安全基地が突如として消えたように思えるでしょう。
子供は泣き叫びます。不安で心が一杯です。身の回りの全てが恐ろしいものに見えるかもしれない。逆に、茫然自失として、動けなくなってしまうこともある。
繋がりが深く、安全基地のような役割を果たしていた母親がいなくなり、悲しみに包まれた。
これが「愛着対象の喪失による悲しみ」の一例です。
侮るやなかれ
なーんだ、子供の話か。
と侮ってはいけません。愛着対象を失った反応は、成人した人たちにも見られます。なぜなら、大人たちも愛着対象を持っているからです。
実際、ボウルビィは、配偶者を亡くした人の反応に直面して、愛着対象を失った子供と類似性を見出し、愛着理論を提唱しています。
僕たちは愛着対象を持つことで、生きる意味を見出したり、不安を解消したり、心を落ち着かせたりしている一面があります。愛着対象を自分の一部と見なし、アイデンティティとしているケースもあるでしょう。
子供の成長が生きがい、という方はどれほどいるでしょうか。子供が近くにいなければ不安。子供をあやすことで心が満たされる。これは、立派な愛着対象です。
仕事もそうです。家族との関係がうまくいかず、仕事に逃げている人の話はよく聞きます。つまり、自分の価値を感じさせてくれる仕事が、安全基地となっているわけです。
恋人は、言うまでもないでしょう。付け加えるなら、遠距離恋愛といった物理的な距離は関係ありません。重要なのは、心理的な距離。
実は、故郷を愛着対象としている方もいます。東日本大震災で避難していた人たちが、故郷に戻ってきています。彼らにとって、ふるさとは自らのアイデンティティであり、自分らしくいることができる安全基地です。
愛着対象を失った時、僕たちは悲嘆に暮れます。子供ほど無邪気に、周囲を気にせずに大声で泣くことはありませんが、悲しみを感じるのは事実です。
そして、涙が止まらなかったり、生活が楽しくなくなったり、社会から突き放されたように感じたり、引きこもったり、生きている理由がわからなくなったりする。
メンタル面に不調をきたすだけでなく、不眠といった身体的不調が出ることすらあります。
愛着対象を失うということは心の安全基地を失うということであり、心理的にも、社会的にも、生物学的にも、相当な影響を与えることなのです。
自分の一部を失う、といっても過言ではないでしょう。
そして、ボウルビィは愛着対象の喪失に対して、こう述べました。
人間に襲いかかる最も悲惨な経験のひとつ(Bolby, 1982)
自分は何者なのか。生きる意味は。希望は何か。居場所はあるのか。社会は見捨てたのか。こうした苦痛や悲嘆が襲いかかってきやすいのが、死別です。
しかも、死は予告される場合もありますが、事故や災害や病気では、突然失われてしまいます。
それなら確かに、最も悲惨な経験になるだろう、と納得がいきますね。
まとめ
今回は、どうして大切な人が亡くなると悲しいのか、をテーマに述べてきました。
キーワードは「愛着対象」「安全基地」といったところでしょうか。
愛着理論に基づくと、自分の一部とも言える愛着対象を失うから苦しいのだ、ということですね。
ただ、愛着対象を持つことが悪い、と言いたいわけではないので、誤解はしないでください。愛着があるからこそ幸せに生きられるし、失った時に辛いのです。
また、この理論は一つの考え方に過ぎません。批判される箇所だったり、言及していない部分もあるので、何でもかんでも愛着理論に落とし込まないようにしましょう。
ここまで説明しておいて変ですが、大切な人との死別が悲しいのは、理論で把握すると理解しやすいですが、理論抜きで、ただただ悲しむ気持ちの方が大切だと思います。
その意味で、理論は信頼し過ぎないほうがいいです。
余談ですが、この愛着対象に固執するな、と言い張ったのがお釈迦様だと個人的には思っています。
愛着対象を持つことはいい。しかし、失われることを受け入れろ。
それが仏教的な考え方でしょう。執着しない。
しかし、空海をはじめとした名だたる僧侶たちも、愛弟子など大切な存在が亡くなったときは悲しんだそうです。
高僧といえど、愛着対象を喪失した悲しみから逃れることは難しい。僕たち一般人からしたら、なおさらです。
でも、そうやって悲しむことができるというのもまた、人間らしさと言えるのではないでしょうか。
僕たちは、人間です。