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死と生を扱う学問、死生学をパパッと解説

石井 祐晃

2021年4月より、東北大学大学院の死生学・実践宗教学科という専攻分野を勉強しているのですが、よく聞かれます。

[chat face=”man1″ name=”とある人” align=”left” border=”gray” bg=”none” style=””]死生学って何を勉強するの?[/chat]

 

そうですよね。至極当然の質問だと思います。有名ではありませんし、まず、名前からしてピンと来ません。

宗教学は、宗教を学ぶ。分かりやすいですね。看護学は、看護を学ぶ。丁寧にケアする姿が目に浮かびます。死生学は、死生を学ぶ。

はい、理解に苦しみます。哲学なのでしょうか。頭に絵も浮かびません。あっという間に好奇心を置き去りにする、抽象的なネーミングです。

ただ、名前で理解できないこそすれ、直感的に「何か興味深いものがありそうだな」と感じる部分もあるのではないでしょうか。

建設的に理論や説を築きあげる学問として、死や生がテーマとなっている内容。何だか、歩んできた人生や、これからの将来とも関わりが深そうです。

果たして、死生学とはどのような学問なのか。

ということでこの記事では、死生学を簡単にまとめてみました。死生学を知らない方や、死生学に興味を持った方にもご覧いただければ嬉しいです。

 

死生学を一言で表すと

僕はいつも以下のように説明します。

死生学とは、死や命に関連したテーマを扱うことで、生きるとは何かを考える学問です

へー。

って感じですよね。肩透かしを食らった方、ごめんなさい。ここで述べているのは学問の方向性に過ぎません。

具体的な内容を説明していないので、イメージもなかなか浮かばないことと思います。分かったようでわからない。罪な説明です。

では学者の方はどのように定義しているのでしょうか(嫌な予感)。

静岡社会健康医学大学院大学の教授である山崎浩司は以下のように述べています。

死にまつわる事柄に注目し、そこから生をとらえなおすことで、死生にまつわる現実的な問題に対応しようとする学問であり、学際的、実学・臨床的要素を多分に持ち、実存的要素を持つ

なるほど、難しい(予感的中)。ちなみに学際的とは「分野をまたいだ学問分野」という意味です。それでも少し難しいですね。

この説明を紹介したのは断じて嫌がらせではありません。死生学が何たるものかを的確に表しているため、あえて紹介しました。ぜひ、皆さんにも理解していただきたい。

ということでここから、さらに優しく解説してみます。おそらく、読み終わった頃には先ほどの定義も理解できるはずです。

 

死生学をかいつまんでみる

死生学が扱うテーマは?

悲嘆、死別、大切なものの喪失、尊厳死、脳死、末期ガン患者へのケア、臨死体験、死生観、死後の世界、いのちの教育、自殺、孤独死、震災、トラウマなどなど……。

これらが、死生学が取り扱う内容、つまり死に関連したテーマです。これらに付随して、いじめ、臓器移植なども取り上げられます。

お坊さんといえど胃もたれしそうな、重いテーマばかりですね。こればっかりは、致し方なし。

ただ、知っておいてほしいのは、「死に目を向けた学問」では不正確、ということです。

「死学」ではなく「死生学」であるように、目的は「死に関連したテーマから、生きるとは何かを考えること」です。

心は疲れますが、決してネガティブな気持ちばかりではありません。むしろ、ポジティブな気持ちになることさえあります。

死に直面した人たちの言動から勇気をもらうこともある。余命がある方の考え方が、少しは理解できるようになる。命への向き合い方が変わる。嘆き悲しむことが、悪いことではないことに気づく。

死生学は、生きることに目を向けた学問です。死という恐怖と向き合うからこそ、未来への可能性を捉えることができる。自らへの戒めとしても、忘れてはならない視点です。

 

学問領域は?

死生学は本当に多様な、もう生きているうちに把握できないほど、幅の広い学問領域を持っています。うんざりします。

医学、宗教学、社会学、哲学、倫理学、人類学、心理学、歴史学、福祉学、民俗学……。こういった社会に役立つ学問のことを、総じて「実学」と呼びます。定義にも出てきましたね。

「死」「命」が関わっていれば、それは死生学の範囲内といえます。そのため、実学のありとあらゆるものが死生学の領域になります。

手に負えない学問領域ですが、大別して2つに分けられます。医療系と、人文科学系です。両者の中から具体例を出してみましょう。

医療系で例を挙げると、医学における緩和ケア。苦痛を感じてまで命を長らえさせるのではなく、尊厳を持って人生を生き抜くために、あえて積極的な治療を行わず、在宅でケアを受ける。寒々しい病院よりも、家族に囲まれた温かい場所を選びたい。こういった在宅緩和ケアには良い面もありますが、問題ももちろんある。それらを取り上げる研究もあります。

人文科学系で例を挙げると、民俗学における死産の供養。古来の日本人は、赤ちゃんが亡くなった時、その遺体を底が抜けたツボに収めて、家の入口の真下に埋めました。そうすることで、赤ちゃんは大いなる大地にかえりつつ、赤ちゃんの魂は上へと昇ることにより、入口を跨ぐ母親の元へと戻り、受胎しやすくなる。そんな理屈があったのではないか、と考えられています。

両者はアプローチも視点も目的も全く異なります。しかし、死生学の範囲内です。

まさに、分野を横断するような学問。定義にあった「学際的(学問分野を横断する)」とはこのことです。少し、定義の意味が掴めてきたのではないでしょうか。

 

死生学はいつから始まり、どのように変化したのか?

死生学は英語で「Thanatology(サナトロジー)」と表記します。死学とも訳されます。

世界を見てみると、このサナトロジーの講義が最初に作られたのは、1963年、ミネソタ大学のR・フルトン教授だったとされています。

日本では、1977年に「日本死の臨床研究会」が創設され、この学問分野に焦点が当てられました。さらに、1984年には柏木哲夫により日本初のホスピスが創設され、他に上智大学ではアルフォンス・デーケン教授による「生と死を考える会」が全国的に展開されました。

こうしてみると、20世紀後半に盛り上がりを見せていることがわかりますね。かなり最近に始まった学問です。

しかし、これよりも以前から、死はありました。戦争だってありました。では、どうしてこの時代から、死の問題に焦点が当てられてきたのか。

それは医療技術の発展に起因します。

科学の進展によって、医療技術は飛躍的に向上し、多くの命を救えるようになりました。素晴らしいことです。一方で、どれだけ治療を施したとしても救えない、医者の手からこぼれ落ちる命がより目立つようになりました。

救える命が増えたことで、救えずに死に直面した人たちは、大きなショックを受けるようになります。「どうして死ななければならないのか」「なぜあの子なのか」。こうした悲痛に対応すべく、心のケアの重要性が高まっていきます。

こうした実際の現場で行われるケアがあるため、先ほどの定義では「臨床的要素を多分の持つ」と言われています。

しかし、死生学の始まりはこちらの方が重要かもしれません。

医療技術の進歩により、死に対する見え方が変わります。運命や神様に左右されるはずの命が、医療という人間の管理下に置かれている……。つまり、死は、自然の摂理の側から、人間が対処できるものへと変わってしまったのです。

人間が命を左右できる。これは医療ではなく、道徳の問題となります。延命治療は正しいのか、良い生き方とは何なのか、脳死は死と言えるのか。議論が噴出します。

生死にまつわる様々な問題に対処しようと試みますが、困難を極めました。なぜなら、人の価値観が異なるからです。死や命に対する見方は、個々人が持つ宗教・文化・社会・教育環境などに左右されるため、統一した決定事項は反論を生みます。

「脳死で臓器移植をして良いですよ」とした場合、「脳死でも目の前で心臓は動いてるじゃないか」という人と「意識がないなら死です」という人が出てきます。

信じる宗教や育った文化・環境によって、生死の考え方がまるで異なります。こうなると、議論の答えを出すために、それぞれの宗教・文化・社会・環境などを調べなければなりません。つまり、実学のあらゆる角度から、生死の考え方を探る、ということです。

例えば日本人であれば、日本人はどのようなルーツを持つのか。心理学的にどのような傾向があるのか。無宗教と呼ばれる日本人の宗教性は関係しているのか。古来の日本人は死をどう捉えていたのか。あらゆる領域を調べることにより、死に関連した諸問題に答えを出していきました。

このような経緯を経て、死生学が徐々に形作られていきます。

さて、長くなりましたがここまで読めば、どうして学際的な性質を持つのか、実学・臨床的要素があるのか、医療系と人文科学系に大別できるのか、理由はわかったのではないでしょうか。

死生学が学際的なのは、死や命に関連した問題を考えるときには、さまざまな分野を考慮しなければ答えが出せないから。

実学・臨床的要素を多分に持つのは、実際に死に直面している人へのケアをしていて、そのケアのためには多くの学問分野を横断する必要があるから。

医療系と人文科学系に大別できるのは、死が医療管理下に置かれている時代であり、そして、死に直面した人を支えるために歴史や宗教や文化を調べる必要があったから。

歴史的背景を見てみると、一目瞭然です。

 

現在の死生学は?

もちろん、現在も人文科学系の研究は進められています。その上で、今ニーズが高まっているのが、死に直面している方や、喪失を体験した方の心のケアではないでしょうか。

医療技術の向上で、ある程度の病気には対応できるようになったことにより、亡くなる方の三分の一はがん患者、という時代になりました。さらに、超高齢化社会により、多死社会となっています。つまり、ガンで緩やかに亡くなっていく人が増えている、ということになります。

なぜ自分が死ななければならないのか。なぜ娘が癌になってしまったのか。そうした苦しみを抱える人が、非常に多くなってきたにも関わらず、医師や看護師は時間に追われているため、対処しきれずに放置されている現状があります。

こうした現状に対処するのが、臨床宗教師スピリチュアルケア師です。海外ではチャプレンと呼ばれる役割に近いです。彼らは、傾聴などを重ねて寄り添うことで、人生の意味や命の儚さに苦痛を感じている人に対し、ケアを行います。

こうしたケアのことを「スピリチュアルケア」と呼びます。「スピリチュアル」というとオカルト風で怪しげにも聞こえますが、そういうものではありません。

死が迫っている方の中には、「無意味な人生だった」「運命は意地悪だ」「私なんて生きる価値がない」そんな苦しみを抱えながら生きている方もいらっしゃいます。

胸が締め付けられるようなこの苦しみは、「恥ずかしい」「やる気が出ない」などの精神的な苦しみとはまた別です。人生や運命への苦痛は、強いていえば、魂の叫びとも言えるでしょう。こうした魂の次元の痛みをスピリチュアルペインと呼び、その痛みへのケアを「スピリチュアルケア」と呼びます。

現在の死生学は、スピリチュアルケアに関連するものが多いようにも思います。スピリチュアルケアは実践的な死生学、とも言えるでしょうか。

時代の流れをしっかりと捉えて、真摯に応えようとしている姿勢の表れともとれます。

まとめ:死生学の意義

死生学は、人間の非合理さを思い知らせてくれます。精神的に弱く、儚い存在であることを痛感させます。たまに、勉強してて悲しくなることもありました。

しかし同時に、日常が喜びに溢れていて、尊いものであると実感させてくれます。守るべきものを大切にする人間の勇気を誇ることができます。人間が潜在的に持っている大きな可能性を実感させてくれます。

やはり、生を考える学問です。死生学は、生きることを考えるためのたたき台として、有意義な価値を持っています。

後悔なく生きる。充実して生きる。幸せに生きる。

死生学はその支えになるはずです。

 

僕は死に対して強烈な好奇心があるわけではありません。ましてや、死を克服したい、なんて1ミリも興味ありません。

しかし、「生きるとは何か」には、尽きぬほどの関心があります。

そして僧侶という立場上、「死」は付きまといます。

死が日常に溢れている状況で「よく生きる」ことを考えずにいられない自分にとって、死生学はうってつけの学問分野でした。大学院で専門的に学ぶことができる自分は幸せ者です。

死生学は、僕のみならず、僧侶は全員学ぶべき学問分野だと個人的には思います。葬儀を重ねるにつれて、死に慣れてしまうことが一番怖い。死生学はそうした一面を防ぐ役割もあるように感じます。

今後も、死生学の内容をブログに投稿していきます。それではここら辺で。

ABOUT ME
石井祐晃
石井祐晃
円福寺 住職
「祐晃」は「ゆうこう」と読みます。東北大学大学院の死生学・実践宗教学を専攻し、2024年春に修了しました。 好きな食べ物は、じゃがりこサラダ味(Lサイズ)。
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